ひまわり:あけぼの山公園(写真をクリック拡大)
このページ左上:安藤達己オリジナルソングの下に2曲“Seventeen”・“セブンティーン”追加!全10曲・YOU TUBE にアップロード。エキゾチックでトロピカルな映像と音楽を楽しんで下さい
今年の夏ぁ、明るい話題がねぇ。東北大震災の後始末のメドさえ立たねぇのに、今度ぁ大水害よ!日本てぇなぁ、災害列島なのかなぁ。思わず、溜息が出らぁ。こんな昨今だからよ、パァ~と、明るい気持になろう、ってんで”ひまわり”を見にやってきたいっ。常磐線、我孫子駅に降り立ち、バス停で駅前をぐるり眺めてみたが、相変わらずの田舎駅よなぁ(苦笑)。こかぁ開発から取り残されてんのか心配になるほどサビレてらぁ。
10分も待ったか?”あけぼの公園”行きのバスがやってきた。便利になったもんよ。乗車口で”電子チケット”なるものをマークに押し付けりゃ、ポケットの小銭を探すまでもねぇ。後ぁ、目的地のバス停で降りるだけだぁーな。バスが走り出して3分、窓外を眺めて驚いたいっ!高層マンションが林立してらぁ。駅前の景色からぁ想像も出来ねぇ。いってぇ何千世帯、住んでんだろう?考えてみりゃ、上野から電車に乗って僅か30分。デベロッパーが放って置く訳がねぇ。以前ぁ、農地か雑木林で値段も安かったんだろうがーー。今ぁ立派なベッドタウンよ。バスから見える広場にゃ、盆踊りの舞台。取り囲むように”ちょうちん”がぶら下ってたぁ。そこから15分。終点の”あけぼの山”に到着よ。バスを降りりゃ、目に入るなぁ農地とビニールハウスだけ。目的の公園がどこにあんのか?聞きたくても人が居ねぇ。そうそう無人の”精米所”があったっけ。仕方がねぇから、今降りたバスの運転手に聞いたぁな。
教えられた通り、木もねぇ、家もねぇ道を陽に照らされてテクテクと10分。やっと”あけぼの山公園”の表示があった。畑の向こうに森らしきものが見えて、簡単な入り口を入ると木々の中にアスレチック。そこを過ぎると芝生の広場があり、コンクリートで囲った小川も流れてらぁ。見通しゃ良いが”ひまわり”らしきもなぁ見当たらねぇ。丁度、通り掛った人に聞いてみると一番奥の突き当たりだとさ。
なぁ~るほど、突き当たりにゃ低い鉄柵があり、”乗り越えないで下さい”の注意書き!道路をはさんだ向こうに”ひまわり”畑があった。柵に沿って暑い中を5分歩くと門があり、そこを出りゃ、一面、黄色い花よ。迷路にゃなってねぇが、これだけ咲いてると、つい傑作映画”ひまわり”を思い出した。あっしも歳だなぁ!すべり易い泥の通路をゆっくり歩いていたが、さっきから羽音らしきものが聞こえてらいっ。ひまわりをじっと見ていると、”いたいた”これでもハチなのかなぁ?ちいさな虫が盛んに蜜を吸ってたぁ。相手ぁ1センチ足らず。カメラに納めようったって簡単じゃねぇ。どうやらハチらしく見えるのがあったから、これで”よし”とすっか。あと10日もすりゃ、種も収穫時期だろうが、昔の様に油を搾るのかなぁ。あっしが子供の頃にゃ、種を取り出して食べたもんよ、今の子供ぁ知らねぇだろうがーー。
もう1時をまわってらぁ。園内の丘に登りゃ、池があってハスが咲いてるらしいが、小腹がへってきたぁ。丁度、レストランが見えてっから、ちょいと寄ってみるか?冷てぇ生ビールを飲んで一休み、汗も引いたところで外に出りゃムッとした暑さよ。もう坂を登る、元気もねぇ(笑)。出口に向かうと小さな温室が目に止まった。入り口にゃ夾竹桃にワシントンヤシ。中に入ったが”こりゃ狭ぇ”。ぐるり一巡りしたって5分と掛からねぇ。赤ぇ花ぁブーゲンビリヤ。
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通路のへりにゃ、ダヴァオで見かけるトゲだらけの葉っぱやら、白ろい花をつけた草花があったが、どれもありきたりで、足を止めてシゲシゲと見るまでもねぇ。見上げりゃ、木が密集して、どの葉がどの木のものか分からねぇ。オヤ!丸い物がぶら下ってらぁ。こりゃ葉っぱじゃねぇな。良く見りゃマンゴーじゃねぇか。ダヴァオのプランテーションで見た木のように鈴なりってぇわけにゃいかねぇが、懐かしい気がして、もっとねぇか探したが、なってんなぁ、この2つだけだった。ちょいと先の高い所を見るってぇと、こっちにゃ、やせちゃいるが?パパイヤがあった。温室の中たぁ言え、この環境で実を付けさせるにゃ苦労があるんだろうなぁ。変なところで感心して、狭い温室を出たぁな。ビールのせいで、この暑い中を歩くなぁ気が進まねぇが、タクシーなんざぁ来るわけがねぇ。バス停まで歩かねぇことにゃ我が家に辿り着けねぇ(笑)。日陰もねぇ道をデレデレ歩いてると、道路際の物置に黒い影が走った。立ち止まって天井を見ると、黄色いくちばしをしたツバメの子供が数羽、大きな口を開けてエサをねだってたぁ!
安藤達己的毒舌:8月6日・今年も広島原爆記念日の式典が開かれた。小学生代表が”平和の鐘”を鳴らし、例年の如く総理の挨拶が続いた。多くの国民はどんな気持でこの光景を見ていたのだろう?昭和20年・広島、長崎に原爆を落とされ、第二次世界大戦は終止符を打った。そして昭和30年代半ば、外圧があったにしろ、日本は”原子力平和利用”と言う美名のもとに原発開発に踏み切った。国策学科・東京大学工学部原子力学科の誕生を見れば、これは明らかだ!ここを卒業した学生だけが、原子力のエキスパートとして原発を担うことになる”原発ムラ”への第一歩だった。
放射線の洗礼を経験した日本が原発燃料の最終処分さえ解決出来ないのに、”安くて、安全でクリーンなエネルギー”と言う神話を捏造して、原発に頼るエネルギー政策を取ったのは正しかったのか?福島の原発事故が、それを問い直している。
もし、原爆を経験し、資源も無い日本が世界に先駆けて、エネルギー需要を再生可能な電気に頼る政策を取っていたら、恐らくソラーパネルの性能、水力、風力、波力、地熱発電と蓄電の技術開発で世界のトップを走り。被爆国日本の存在価値は、正に先進国に相応しいものになっていたであろう。
今も、広がり続ける放射能の恐怖!国策として”原発”を推進してきた日本のリーダー、内閣総理大臣経験者はどんな思いで現状を見ているのだろうーー