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えっ!安藤達己主演・台湾映画だって?(写真をクリック⇒拡大)

時は1966年、湯浅浪男監督のチーフ助監督として、松竹映画”やさぐれシリーズ”を撮っている頃だった。日台合作映画”母ありて命ある日”の話が持ち上がり、パスポートを申請しろ!と言って来た。パスポートは現在のように10年間か5年間の期間で選ぶのではなく、一回か複数回で外務省に当人が直接申請する方式だった。早速、台湾観光ビザを取得、有効期限は3ケ月。滅多に乗る機会が無いジェット機727(セブントウセブン)に乗り込み、台北空港に降り立つと、空港には報道陣と共に台湾側のプロデューサーが迎えに来ていて、そのまま台北市内の一流飯店(ホテル)に落ち着いた。
霧夜2.jpg台湾式歓迎会はすさまじい!向こうでは”すきやき”と称していたが、日本の”しゃぶしゃぶ”みたいな鍋料理で宴会は始まった。日本側は俳優さんを含めて6人。台湾側関係者は40~50人。”うたげ”が始まって30分もすると、台湾側の幹部らしき人がシングルグラスと紹興酒を持ち、日本側スタッフの席に来て”乾杯(カンペイ)”を要求する。”カンペイ"とは一気飲みのことだった!”そんな事を露知らない、うぶな私は、うかつにも”カンペイ”なる儀式を受けてしまった。それを見ていた台湾側スタッフが雪崩をうって”カンペイ”を求めて私の席に押し寄せて来る。断れば、”何で、あいつとカンペイ出来て、おれと出来ないのだ!”と引き下がらない。その結果、翌日はひどい二日酔いで、吐き気と頭痛に見舞われながら、ひたすら後悔するのだった(笑)。
台湾側スタッフとの顔合わせが終われば、すぐに撮影が始まる。日本人が映画を撮りに来るなんて、珍しい時代だったから、新聞は連日のように報道する。従って、物見高い少女たちは、毎日ホテルの前にたむろして撮影スタッフが帰って来るのを待ち受けていた。その数、ざっと200人前後。こんな日々が一週間も続いた、だろうかーーそんな或る日、理由はハッキリしなかったが日本で撮影したフイルム(10分程度)が税関を通らないことが判明。結局、合作映画”母ありて命ある日”はアッケなく制作中止となった。惨めだったのは私達日本側スタッフだ。ホテルは場末の三流どころに移され、当然、ギャラが入って来ないから一文無し。日本にも帰れない。途方に暮れている最中に、
ツザキ.jpg台湾側プロデューサーが”安藤達己”が主演するなら、映画を一本作っても良い、と意外な提案をしてきた。理由を聞いて、これ又びっくり!ホテル前で”きゃー、きぁー”騒いでいた少女達の目的は安藤達己だったと言うのだ。湯浅監督は渡りに船と、この話に飛びつき”アンちゃん頼むよ!”と笑っているが、私はとても乗り気になれない。しかし、場合が場合だからNOなんて言える筈もなく。監督は早速、日本題名”夜霧の停車場”、台湾タイトル『霧夜的車站』の脚本に取りかかった。勿論、私も当然のように手伝い、3・4日で脚本を仕上げると、通訳とスクリプター(男性でチーフ助監督)がプロデューサーと共にやって来て、ドンドン台湾語に訳していく。こちらでは台本を印刷しない。現場でスクリプターがセリフを俳優さんに渡す。
英々.jpgプロデューサーはさっさと台湾側の配役を決め始めた。私の妹役、東條民江の恋人に売り出し中だった”高鳴”。私の母親は名女優”英英”。脚本が仕上がれば、大切な”金づる”だから、すぐにクランクイン。現場は北投で日本の箱根のようなリゾート地だ。スタッフ、俳優は全員、クランクインからクランクアップまで同じホテルに泊まっているのでスケジュールを組むのは楽だが、時間にルーズで大道具、小道具が揃わず、撮影が大幅に遅れるのは当たり前。でも誰も怒らない。”台湾時間だ!”と笑っている。
私は助監督兼主役。準備に追われ、出番が来ればカメラの前に立つ、相手役は台湾語で話し、私は日本語で受け答えをする。なんともはや、奇妙な現場だ。セリフのきっかけを掴むのがやっとで"良い芝居”をするどころの騒ぎじゃない!と言っても、もともと俳優じゃないから”良い芝居”なんて出来っこないか(苦笑)ーー挙句に、監督は日本語の通じる(?)私に、”アンちゃん、こう動いた所でカットを切り換えるから”とか、勝手な注文を付けてくる。そんな事がありながら撮影も無事終わり、アテレコ、ダビングを経て、湯浅浪男・第一回台湾映画・『霧夜的車站』は完成した。
雑誌.jpg映画は台湾語版・北京語版が同時に華々しく封切られ、それなりに話題になった。主演俳優(?)の私は、映画の封切り後、どんな待遇を受けたかって?恥かしくって自分の口から言いづらいかなぁ!このあたりの話しは、今月発売された雑誌:「台湾映画」東洋思想研究所発行(電話・FAX 0744-28-0635)の”安藤達己監督インタビュー”(取材・日本大学講師 山崎 泉)で語られています。
 
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霧夜1.jpg安藤達己的想い出話:古いアルバムを引っ張り出して、やっと見付けたのが、このブログで使った写真。セピア色に変わっていた。当時の話を始めるには”昔々あるところに”と言う、まくら言葉が必要なほど時間が経ってしまった。昔々(?)まだ蒋介石総統が健在だった台湾では、総統が出掛けるとなると、自動小銃を持った軍隊が30メートル位の間隔で道路に配置され、厳重な警戒網が引かれていたんだとさ。
*当時、中国も台湾も一つの中国を主張。名目上は戦闘状態にあった。だが、実際は金門島でお互いに(台湾側と中国側)時間を決めて大砲を撃ち合っていただけで、犠牲者なんか間違っても出ない状態だったそうだ。実際に金門島で兵役に付いていたスタッフの話だから、間違いない。こんな不可思議な戦闘が行われていたのは、米国が台湾に共産主義封じ込めの最前線と言う意味合いで莫大な資金援助をしていたからだろう。
*映画の撮影中に、私物が全部、盗まれる被害にあった。困ったのはパスポートが無くなったことだ。これを再発行して貰うのに、まずは警察署に被害届を出し、10日位、警察が捜査(実際は何もしないそうだが)。紛失証明を貰って日本大使館に再発行を申請する。その間、約1ケ月、パスポートがないから、一人では何処にも行けない。
*台北で楽しいのは、屋台で食べる夕食だ。一人では言葉が分らないから台湾人スタッフと一緒に行くが、ずらり軒を連ねたお店を覗いては、好きな”つまみ”を4・5皿頼んで老酒を一杯。仕上げは麺で、これも種類が多い。スパイスも豊富で、私には台湾麺が一番美味しかった。確か2元(20円)だったと思う。
*”母ありて”の撮影が中止になり、ダンスホールで知り合った、日本語の上手い女性と出掛けた時のことだ。マーケットの前を通ると、ご存知のように”ブタのもも”や”アヒル”、”ニワトリ”の丸焼きが無造作に吊り下げられている。くだんの女性、ニワトリの足(モモ肉ではありませんぞ。指のあるところ)を見付けると、二本買った。”アンドウも食べるか?”と聞くが、勿論、遠慮した。”おいしいのに”と言うやいなや、指のあたりから、”むしゃむしゃ”と食べ始めた!?
*いよいよ日本に帰る事になり、有名なヒスイでも買いに行こうとしたら、親切なスタッフが一緒に来てくれた。”私が呼ぶまで、外に隠れてろ!”と言うから、その通りにして指輪を買ったが、当時の台湾では土産物には全て”アメリカ値段”・”日本値段”・”台湾値段”の3段階があったそうだ。この友達のお陰で、私はヒスイの指輪を”台湾値段”で買えたことになる。
面白いが他人に言えない話も沢山ある。それは別の機会に:と言うことにして、では、また来週!

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コメント

白黒写真!貴重!
でも、安藤さんがいないよ?
まさかまさか、この若い男の人ではないですよね。笑っちゃいけないけど若かった!!
9月9.10.11に台湾に行ってきました。

毒舌がないのはどうしたことか!

私もダバオで20歳若い人と結婚して過ごそうかな?

tadaさん:白黒写真って言うより、セピア色写真になっちゃってる?
”安藤さんが居ないよ”はないでしょう!流石に主役を押し付けられるだけのことはある!”いい男だ!”な~んて、言えないっか。又、タイミングよく、私のブログに合わせて、台湾に行ってきたんですね。
ダヴァオと言わず、行きたい場所で若い奥さんを貰ってくんさい(笑い)。

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