ダヴァオ紀行:その26 不法占拠地帯(写真をクリック⇒拡大)
海辺の低湿地帯に海水が流れ込んで来る。ここは本来波が寄せては返す、波打ち際だ。そこに木や竹で下駄を履かせた家が、と言っても、床とそれを囲う壁板に屋根が乗った簡単な物置みたいな建物だが、次々と無許可で建築され、低所得層の人々や、周辺農村地域からダヴァオ市に移り住んだ人々が住み着き、巨大な集落が出来上がっている。
ここダヴァオ市はミンダナオ島、最大の都市で、農村から職を求めて人が集まって来る。しかし、失業率が30%以上もある現状では、元々、ダヴァオ市に住んでる人も、大学を出た人も、仕事は簡単に見つからない。例え、見つかっても大抵契約労働で、3ケ月か良くても6ケ月の賃金が保証されるだけだ。それでも人口の都市集中は止まらない。
ハバルハバルと呼ばれる原動機つき三輪車に乗って、水溜りだらけの細いデコボコ道を、人が歩く程度の速さで10分も乗ると三輪車が”たむろ”している、ちょっとした広場に辿り着いた、そこで車を止めて、車を降りる。そこに居た人々は皆、見かけない私を興味深げに眺めていた。一寸、気持ち悪いが、そ知らぬ振りをして、友人の後を追う。すぐに幅が20センチ位の板の上を、突き出ている棒に捕まりながら、おぼつかない足取りで歩いて行く、2メートル下は水溜りだ。狭い板だって一直線に固定されているわけではない。右の板の上を5メートルも歩けば、今度は左の板の上を歩く。歩道代わりの踏み板の両側には洗濯物がぶら下がり、誰が飼っているのかアヒルも居れば、汚い雑種犬まで昼寝をしていた。
一年中暑い熱帯地方の水の上にある家だから、下からの湿気でムッとする暑さだ。踏み板に面した狭い踊り場に出ると、開けっ放しの、薄っぺらなドアーの向こう側が、一軒の借家と言うわけだ。
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玄関のような、居間のような狭い場所にテレビと冷蔵庫が置いてあった。こんな生活をしていても、冷蔵庫はともかくテレビだけは欠かせないのかなぁー?床にビニールが張ってある3畳程のスペースがトイレとシャワー室だとのことだ。シャワーといっても、水を大きなポリバケツに貯めて手桶で体に掛けるスタイル?だし、トイレといっても床に開けた穴があるだけだ。排泄物は直接、水に(海に)ボチャンだ。
家賃を聞いてみると、月に2000ペソ(5000円)もするそうだ。私がビックリしていると、電気代、水道代込みの額だと付け足した。不法に建てた家に、電気や水道が正規に引けるわけも無く、家主が勝手に(勿論タダで)電線や水道管から引いているのだろうが、住む方からすれば是非必要なライフラインだから、双方に”都合が良い”と言うことになるのかなぁー?
安藤達己的独り言:昭和26年、終戦の傷跡を残したままの両国に移り住んだ。住むといっても見渡す限りガレキの山で、建物らしき物は焼け残った学校と、いち早く立て直した相撲部屋ぐらいのもので、私の家だってベニア板で囲った、窓も山小屋のようにツッカイ棒で開けるベニア板だった。トイレも外に掘っ立て小屋を建て、勿論、汲み取り式だった。私の通った中学は4階建てで、1・2階は学校で3・4回は家を焼け出された避難民が住んでいた。
昭和30年。今から、わずか53年前、私は上野にある高校に通っていたが、西洋美術館がある辺りは”あおい部落”と呼ばれる不法占拠集落があったし、ある高校(竹の台だったと思う)は焼け残った都議会のビルを校舎として使っていた。最近、建て替えで営業を終えたジュラクが入っていたビルの、西郷さんの下を削る工事が始まったのもこの頃だ。王子駅周辺や池袋の西口も迷路のようになっていて、ヤミ屋とよばれる商店が軒を連ねいる、いわゆる不法占拠地域だった。
ダヴァオの不法占拠地帯を見て、こんな感慨にふけるのは、もう、私の様な、一握りの日本人になってしまったのかもしれませんね。